2024年11月06日
コンテンツ番号18013
村人のために直訴し処刑された五義民を追想して
(2024年11月6日)
北秋田市の坊沢地区では、五義民事件で処刑された5人の村人たちの三百回忌にあたり、地域住民や関係者約50人が出席し、三百回忌慰霊事業(佐藤茂延実行委員長)「三百回忌慰霊式典」が11月6日(水曜日)に同地区「五義民慰霊碑」前で行われました。
五義民(ごぎみん)事件は、1724年(享保9年)の江戸時代に坊沢村の肝煎であった長崎兵助と村人が村入用額(税金)の過徴や労役の過重を巡り対立し、それを久保田藩(秋田市)に直訴したために斬首に処せられた戸島与市右衛門、戸島吉兵衛、戸島権助、成田喜左衛門、成田喜兵衛の首謀した5人の農民たち。肝煎の兵助は大変な手腕家で、村のために多くの仕事をするが、当時の村では、洪水などでの多くの事業により村入用額の負担が莫大なものとなって各戸に割り当てられた。その年の農作物の作柄も極めて悪く、労役の負担も大きくなったことで肝煎と村人の抗争は激しさを増し、村人たちは意を決して藩に実情を直訴したが、肝煎はひそかに上役人に手をまわしていたため敗訴となる。当時、百姓が訴えるときは村役人(肝煎と長百姓)がなすべきことで、それをせずに村人が藩に直訴することは、「上をさし越した罪」として厳罰に処されることになっていました。この事件で、翌1725年(享保10年)に21人が有罪(牢に入れられた)、うち16人が村を追放され、首謀者と目される5人が打ち首の刑に処せられ、三昼夜さらされたことで現在の首切塚がある場所に埋葬されたとしています。この事件については、いろいろな言い伝えが残っていますが、後世の人々が5人の義民をたたえてのことであると思われます。(参考文献:「鷹巣町史」第三巻)
この場所にある五義民の碑は、二百年忌にあたる1924年(大正13年)に、処刑場所であった桜木岱の古い墓石(首切塚)の跡に建てられ、1978年(昭和53年)には「首切り塚と五義民地蔵」として市史跡に指定されています。
また、お盆の時期に永安寺境内で舞われる「坊沢獅子踊り」は、犠牲になった五義民の霊を慰めるために始まったといわれています。
式典では、出席者全員で黙とうを行ったあと、慰霊碑に献花し「五義民」を追想するとともに冥福を祈りました。
式典後は、坊沢公民館に会場を移して「五義民を偲ぶ会」が行われました。
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出席者全員での黙とう -
冥福を祈り献花を行う佐藤実行委員長 -
献花を行う津谷市長 -
献花を行う出席者の皆さん