2005年04月17日
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鷹巣町のスポーツは四月の河田杯マラソンで幕を明ける。全国に有名な長距離ランナー河田康雄選手は明治四十二年、住吉町「鷹ノ湯」河田七蔵の長男として生れる。子供の頃はやせていて裸になることを嫌っていたが運動会ではいつも優勝した。
青年団の運動会で百㍍を十一秒で走り、走り高跳で一・七〇㍍(県新記録)を跳んだか、鷹巣小学校の遠藤弥太郎先生の「君の瞬発力は長距離に適している」という助言で長距離に転向する(昭九年・二五歳)神宮大会(現国体)一万㍍に出場し,一流選手団の中で六位に入賞しマスコを騒がせた。
第十三回神宮大会(昭十七年)のマラソンで二時間三一分三十秒と当時としては世界的記録で二位になる。「あの時は折返点までトップを走っていたが、途中井之頭公園付近でケイレンを起こし、朝鮮の李選手に優勝をさらわれ口惜しかった。」とよく語っていた。戦争の激化と共に、競技大会は姿を消した。
だが、丸米木材に勤める彼は仕事が終わると二ツ井往復四十㌔の道を、雨の日も風の日も走り続け、当時は彼を変人と見る人もいた。戦後の国体では京都・福岡・広島・名古屋の各会場に旅費自弁の食糧持参で出場して入賞。引退してからも毎日欠かさず走り続ける努力型の選手であった。
昭和六十二年十二月二十四日、朝も走っていたが急逝す。七十八歳。
(資料 新間切抜集昭和六十二年五月・長崎佐太吉氏談)
「広報たかのす」掲載『ふるさと人物伝(故・長崎久氏執筆)』より