2005年11月12日
コンテンツ番号5167
鷹巣地方史研究会主催「史談会」
「続・在りし日の学校を偲ぶ」と題した「史談会」が11月12日(土)、市中央公民館で開催され、廃校になった鷹巣地区の小学校の話題に地域の歴史に関心を持つ参加者らが耳を傾けました。 史談会は、鷹巣地方史研究会(岩谷利男会長)が主催し、鷹巣地方の歴史について研究者や識者を招きテーマを変えながら不定期に開催されています。今回のテーマは、昨年の「在りし日の学校を偲ぶ」に続き、昭和40年代までに廃校になった小学校の想い出について、当時学校に勤務、また通学していた4人の元教諭の皆さんを話題提供者として開催されたものです。 鷹巣地区の小学校は、現在では7校に統合されていますが、昭和30年代には小学校が12校、分校が2校あった時期がありました。この日の史談会では、統合により廃校になった小学校・分校のうち、沢口小学校坊山分校(=その後坊山小学校となる=昭和44年廃校)、綴子小学校糠沢分校(昭和39年廃校)、綴子小学校岩や分校(昭和54年廃校)の3校について、話題が提供されました。
最初に想い出を語ったのは、昭和30年頃に沢口小学校坊山分校に勤務していた三澤昭彦さん(78歳、綴子)。学校のあった坊山集落は、国道285号線沿いに位置し、現在では道路も整備されていますが、当時は交通事情が非常に悪い時代でした。三澤さんは、「当時は荷物を運ぶにも馬の背を頼るしかなかった。特に「鼻蛇頭(びじゃかしら)」と呼ばれていた交通の難所があり、自転車で鷹巣から坊山に向かいこの場所にさしかかったとき、ぬかるみにはまって道路脇の堰に頭から落ち、自転車が自分の上に落ちてきたこともあった」「鷹巣から演劇研究会の皆さんが、学校へ演劇の公演に来てくれたことがあったが、トラックや馬車も通れず、リヤカーに道具を積んで押しながら来てくれた」などと、交通事情もたいへんな時代であったことをしみじみと語っていました。
同校は昭和31年に独立校となり、坊山小学校と名称が変わりましたが、さらに昭和44年には南小学校坊山校舎となっています。この頃、町立小学校は統廃合の大きな動きがありました。七座、坊沢、黒沢、緑ヶ丘の4小学校が廃止、西小学校が設立された昭和46年に坊山校舎に赴任された秋元哲夫さん(65歳、あけのぼ町)は、「坊山校舎は複式学級。初めて複式学級を受け持つことになり、教材の準備などたいへんだった。子どもたちと地域の探検をし、山菜やきのこ採り、川での水泳などゆったりと時間が過ぎていった」と、小さな学校ほど単に知識を学ぶ場だけではなく、その土地に住む人々の心の支えであったことを感慨深く述べていました。
昭和38年に本校に統合になった綴子小学校糠沢分校に戦時中の昭和17年に入学、1年間通った佐藤喜美男さん(70歳、綴子)は、「戦時中の入学だった。同級生のおじさんだと思うが、教室で出征する兵士が敬礼する姿が強く記憶に残っている」「恩師は女性教師だった。教壇にもたれながらよく新聞を読んでいたことを覚えている。大人になってわかったことだが、先生も出征兵士の妻で、戦況などを知るためだったのだろう」と、戦時中の学校でのようすを語っていました。
また、綴子に2校あった分校のうち、もう一校の岩谷分校に昭和39年に赴任した高橋忠俊さん(66歳、綴子)は、全校児童数が32人で、1年生から3年生までと4年生から6年生までの「複々式学級」だった頃の学校思い出を語り、「赴任した年の8月に路線バスが開通し、学校へはその後集落移転になった東又、西又集落を含め、4集落から子どもたちが通っていた時代で、へき地ながら活気があった。学校教員も地域の一員で、よく食べ物などもおすそわけしてもらった。吹雪が続いたときには買い物にもいけず、集落の人たちが心配して見に来てくれたものだった。昭和46年には分校創立85周年という半端な区切りの式典を開催しているが、これも、集落の人たちが『これからは部落内に住んでくれる先生はもうこないだろうから』ということで、集落の人々の要望から実施したものだった」と、地域とともにあった学校の想い出を語っていました。
地方史研究会では、昨年、今回と2回にわたり廃校になった小学校をテーマに史談会を開催しましたが、この後、廃校になった中学校について語る機会を予定しているそうです。