2005年10月24日
コンテンツ番号9282
成田為三から60年振りに届いた葉書
義妹・杉浦俊子さん(千葉県松戸市)が偶然発見、絶筆の葉書を市に寄贈
為三の遺品目録を岸部市長に手渡す杉浦俊子さん(左)
成田為三が51歳の生涯を終えた昭和20年10月29日、その日から60年が経過しようとしています。亡くなる直前に為三自身が書いた未投函の葉書12枚が見つかり、為三の妻・文子さんの妹の杉浦俊子さん(千葉県松戸市在住)が10月20日、浜辺の歌音楽館を訪れ、岸部市長に寄贈しました。
この中には、当時の米内沢町役場助役へあてた葉書も含まれ、60年振りに為三自筆の葉書が新市へ届けられました。昭和20年当時、為三は東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)の教授として音楽活動に従事していましたが、同年4月13日、東京空襲により滝野川にあった自宅が焼失し、家財や作品の一切を失いました。その後、郷里・米内沢の実兄宅に疎開していましたが、多くの楽想を抱き、同年10月27日に再び上京し、玉川学園女子寮の一室に入居しました。
それから2日後の29日に脳溢血のため51歳10か月の生涯に幕を降ろしました。寄贈されたはがきは、その27日か28日に書いたとみられ、当時の米内沢町役場成田助役や友人、知人、音楽関係者に宛てたもので、疎開中に世話になったことへのお礼や転居のあいさつがしたためられています。12枚全部の葉書にはあて名が記され、10枚の裏面には本文が書かれていますが、2枚には何も書かれていません。
ハガキ裏面
このことから体調を崩す直前とも考えられ、まさに絶筆と言えます。葉書は、平成12年に亡くなった文子さん(為三の妻)の遺品の中にあったもので、杉浦さんが受け取ったときは、手紙などがきちんと分類され整理する必要がなかったため、その存在を知りませんでした。
しかし、手の骨折により外出できずにいた今年の5月に、ふと姉の遺品のことが気になって整理していたところ、為三自筆の葉書がみつかり、この日の寄贈となったものです。岸部陞市長、後藤惣一郎浜辺の歌音楽館名誉館長、金新佐久同館長らが、杉浦さんを出迎え、贈呈式を行いました。
杉浦さんは葉書発見までの経緯を説明しながら「浜辺の歌音楽館設立当時(昭和63年)に寄贈すべきでしたが、姉・文子が忘れていたのかどうか今となっては定かではありません。為三自筆の葉書なので浜辺の歌音楽館に所蔵いただきたいと思って、お墓参りもあり、お持ちしました」とあいさつ。
岸部市長は「浜辺の歌音楽館は森吉地区のシンボルでしたが、合併して北秋田市全体の誇りとなり、多くの音楽ファンが訪れています。大事に市の財産として披露し、皆さんに見ていただきます」と感謝申し上げました。後藤名誉館長も「為三研究当時から、杉浦さんは絶大なる力となってくれました。何度もお会いしていますが、今日は、文子さんに会っているように感じます。感謝にたえません」とお礼の言葉を述べました。
この後、平成14年に杉浦さんより寄附いただいた1千万円を基に、今年3月、映像音響設備をリニューアルした音楽館を見学されました。『浜辺の歌』は為三が東京音楽学校在学中の大正5年ごろの作曲といわれ、来年90年を迎えます。
そして、今年は60回忌にもあたり、新市誕生の年でもあります。為三から届いた60年振りの葉書には何のメッセージが込められているのでしょう。音楽館では寄贈いただいた絶筆葉書を2階の遺品コーナーに展示し、公開します。
(2005.10.24)