2006年10月23日
コンテンツ番号4713
「世界の小出」〜小出義雄氏記念公演会
世界の舞台で活躍する陸上競技選手を多数育てている小出義雄監督の講演会(主催:鷹巣農林高校生徒会)が23日、市文化会館で開かれ、同高の生徒や関係者、市民らが、「本気でやれば夢は必ず叶う〜世界が相手の指導哲学」と題した監督の熱のこもった話に、じっくりと耳を傾けました。
講演会は鷹巣農林高校創立97周年と、今年2月鹿角市で開催された第55回全国高等学校スキー競技大会での男子総合優勝を記念し開かれたもので、同校の生徒、教職員、同窓会、PTAのほか一般聴講者も合わせて約500人が聴講しました。
現在佐倉アスリート倶楽部の代表取締役兼監督を務める小出義雄氏は昭和14年生まれの67歳。千葉県佐倉市の出身で順天堂大学を卒業、昭和40年に千葉県立長生高校に教諭として任用されて以来、同佐倉高校、市立船橋高校で陸上競技部の監督としてインターハイ、国体などで優勝、入賞した数多くの選手を育てました。
また実業団への転身後は、駅伝の優勝はいうに及ばず、オリンピックのマラソン競技メダリストの有森裕子、高橋尚子両選手など多くの世界レベルの選手を育て、その指導力は国内外で注目されています。
講演会でははじめに同高生徒会の阿部塁(るい)会長(3年)が、「今私たち3年生は進路を決定する時期。多くのアスリートを育てられ、『本気でやれば夢は必ず叶う』との信念を持たれる監督の講演を心待ちにしていた」と歓迎のあいさつ。また北林強※校長が、昭和63年に小出監督が市立船橋高校陸上部とリクルートランニングクラブの選手を引き連れ、鷹巣農林高校で合宿をしたことが縁で、その後合宿や各種大会など機会があるごとに同高陸上部の指導をしていただいたことなどを紹介しながら、「このような本校との縁から有意義なお話が聴けるものと期待している。そして、本日の講演会を節目として100周年に向けてさらなる歴史を積み重ねたい」と述べ、講演が始まりました。
「練習環境が悪いから走れない、というのは言い訳。勝とうと思えばどんな場所でも練習できる」
小出氏ははじめに、「母校の千葉県立山武農業高校には朝6時に家を出、列車で一つ前の駅で降りて学校まで走って通った。それ以来50年くらい陸上と付き合うことになるが、当時家は零細農家で進学もままならず、陸上漬けの毎日で勉強もあまりしていなかった。しかし、『教師になりたい』との強い思いが大学進学と採用試験合格を実現させてくれた」と高校時代から教師になった頃までを紹介。
高校陸上部の監督時代は、「佐倉高校の陸上部では、進学校ということもあり長距離選手も少なかった。駅伝大会では、野球部やサッカー部など他のクラブから足の速い選手を借り3ヶ月ほどの猛練習で千葉県では3位になることができた」「市立船橋高校では、市長や教育長から『船橋は取り得がないから陸上で日本一にしてくれ』といわれて強化を始め、翌年には男子5千m、女子3千mで優勝者を出し、インターハイでも総合優勝を果たした。船橋市というところは都会の町で練習する場所も少ないが、練習環境が悪いから走れないとうのは言い訳、勝とうと思えばどんな場所でも練習できる」などとの話に、生徒たちもうなずきながら聴き入っていました。
「目的を達成させようとする強い思いが夢を実現させる。一所懸命やることが最も大切なこと」
また、実業団への転身後、監督が育てた選手の一人・有森裕子選手については、「リクルートに入社したとき『オリンピックに連れて行ってほしい』と言われた。当時記録は平凡だったが、『いくら苦しくともみんなの練習時間の倍は我慢できる』と話す彼女のオリンピック出場への願望と、我慢強さはすごいと思った」と紹介、また、あるとき監督(自分)の好きなタバコをやめてください、といわれたときがあった。私が健康を害すれば、自分のオリンピックへの道も遠ざかることが理由だった。それでレースの日まではタバコを控えた。実は彼女は、メダルを獲得したとき、身に付けていたパンツの中に私の好きだったタバコを縫い付けていて、ゴールしたとき吸ってほしいと私を探していたらしい。今、自宅で額に飾ってあるそのタバコは私の宝物の一つ」とのエピソードに、生徒たちも感銘を受けていた様子でした。
また、高橋尚子選手についても、「彼女も最初は平凡な選手だった。高校時代、岐阜県の駅伝メンバーに選ばれたようだが、区間記録は47人中の45位。大学時代も平凡な記録して持っていなかった。進路を決めるとき、『もし、会社(当時の積水化学)に入れないときは、ごはんだけでいいですから(お給料はいりません)。自分を強くしてほしい』といって私のところへ来た。それほど早くなりたいという願望を持っていた。高橋はその願望を胸に猛烈なトレーニングを続け、シドニーで金メダルを獲得し、また女子では世界ではじめて2時間20分を切る、という歴史に残る記録を打ち立てた」と、目的を達成しようとする強い思いが夢を実現させる大きな要因になることを語っていました。
講演の最後には、「記録は破られる。もっと大事なことは一生懸命やること。皆さんが親になったとき、子どもに自慢できるくらい何事にも熱心に取り組むことが大切」と訴えていました。
予定時間の90分を越える熱の入った講演の後行われた会場との質疑応答では、「監督にとってマラソンとはなんですか」との生徒からの質問に監督は、「マラソンとは私の人生そのもの。私はお酒が好きで、教諭時代、付き合いで飲み過ぎで翌日辛いとこもあったがそれを理由に休んだことは一度もなかった。それは『日本一になりたい』という夢があったから。今でも新たな目標を持っている」と答え、実績や現状に満足せず、夢を持ちつづけることの大切さを説いていました。
※校長名の「強」は、つくりのうち「ム」の部分は「口」が正しい
【小出義雄氏略歴】
生年月日/昭和14年4月15日(67歳)
出身地/千葉県佐倉市
出身校/順天堂大学体育学部卒業
指導歴
昭和40年4月に千葉県立長生高校に教諭任用となり、数多くのインターハイ、国体での優勝、入賞者を育てた。その後、佐倉高校に移り、ここでもまたインターハイ、国体での優勝、入賞者を育てたが、特に佐倉高校においては、女子マラソンで高校生の倉橋尚巳選手に当時の日本最高記 を樹立させるなど、その指導力は全国的に注目されはじめた。
昭和58年には、市立船橋高校に転勤となったが、ここでは個人レベルの全国優勝はもちろんのこと、師走の都大路で行われる全国高校駅伝で、 男女のチームをそれぞれ優勝させ、その指導力は一層注目された。
その後、世界に通用する選手を育てたいとの夢を捨てきれず、昭和63年には、教職半ばで学校を退き、実業団のリクルートランニングクラブの監督に就任した。ここでは、実業団駅伝の優勝はもちろんのこと、バルセ ロナ、アトランタの両オリンピックで有森裕子選手に銀メダル・銅メダルを獲得させたことはあまりにも有名である。
そして平成9年に、積水化学女子陸上競技部監督に転じ、世界選手権のマラソンで鈴木博美選手、そしてシドニーオリンピックのマラソンで高橋尚子選手を優勝させ、その指導力は日本国内のみならず、全世界的に注目された。平成13年には新たに「佐倉アスリート倶楽部」を立ち上げ、代表取締 役兼監督に就任した。ここでもパリ世界選手権女子マラソン銅メダルの千葉真子選手やヘルシンキ世界陸上の宮井仁美選手(10000m)ら幾多の名選手を育成し、現在もなお活躍を続けている。
(2006.10.23)