2006年07月13日
コンテンツ番号4571
「神成澪先生を偲ぶ会」
人形作家、陶芸家として知られ、本市にゆかりのある故・神成澪さん(1921−2004)を偲ぶ会が7月13日(木)、材木町のみちのく子ども風土記館で開かれ、 神成さんを知る市民らが思い出話で故人を偲びました。
神成さんは大正10年能代市生まれ。戦後、人形作家としてデビュー、日展に9回入選するなど工芸の道を歩み、その後陶芸やステンドグラス作家としても数々の作品を発表しています。その作品は家族や子どもなどをテーマとしたものが多く、やさしさやあたたかさにあふれた作風で親しまれています。
本市でも、神成さんと市出身の直木賞作家・故渡辺喜恵子さんとの親交が縁で、平成3年に完成した北秋田市文化会館のエントランスホールやみちのく子ども風土記館の玄関の陶壁やステンドグラス、平成9年には鷹巣南中学校正門前のモニュメントを製作していただいています。
生前の神成澪さん(平成3年)
偲ぶ会は、神成さんを知る市民らが3回忌を記念して開催したもので、およそ50人が参加しました。会場では、神成さんの遺影に向って黙とうした後、主催者を代表して中嶋喜代さん(みちのく子供風土記の会会長)が、「神成さんが亡くなってから早いもので3年になる。神成さんからは、母・志保さんの遺志と合わせ、多大な寄付もいただき、野草園(交流センター敷地内)も整備することができた。また、「澪の会」では、工芸の技術を市民に伝授していただくなど、ふるさと文化の振興にたいへんご尽力いただいた。本日は、思い出話で先生を偲んでいただきたい」とあいさつ。
来賓の三澤仁・市教育長らのあいさつ、故人への献花の後、神成さんを知る方たちが、「今の文化会館の陶壁などの製作の際も、作業中はお茶を勧めても断られるほど創作に夢中になる方だった」「偉大な芸術家を失い残念」「鷹巣を第2のふるさととして考えていたようで、自分の作品を展示する“工芸館”の構想の練っていたが、実現せず残念」「月に2回、鷹巣を訪れ、普通の主婦の私たちに優しく工芸の技術を教えていただいた」などと、思い出を披露しました。
この後、参加した皆さんたちもそれぞれ神成さんや母・志保さんのこと、また神成さんの作品について語り合っていました。
神成さんの作品の一部は、上記の場所のほか、市文化会館の特別展示室で、ご覧になることができます。
(作品の例→「みちのく子供風土記館」のステンドグラス )
神成澪 かんなりみお (1921−2004)
1921年(大正10年)能代市生まれ。人形作家、陶芸家。東京で育ち、明治大学女子部法学科を卒業。人形劇団プーク美術部で創作活動を開始。その後、人形作家としてデビューし、陶芸やステンドグラスなどの工芸作品、また人形写真芝居の脚本、本の装丁など広く創作活動を行った。
陶芸では陶壁など大規模な作品も手がけ、昭和40年代には香川県内海町立星城小学校(S41)、高松市・ホテル川六(S43)、福島県立大原総合病院(S47)、など公共建築物の陶壁などを製作している。他に、静岡市民文化会館、イタリア大使館、木下恵介邸、堀越学園、長野市商工会議所など。県内では能代市文化会館、秋田市生涯教育センター、県立児童館などで、作品を見ることができる。
神成さんの母・志保さんは旧沢口村小森の出身。神成家は小森の御三家の一つ。父・千代治氏(澪さんの祖父)は明治44年から昭和17年まで七日市郵便局長を務め、味噌醤油の醸造工場を建設し、製造・販売を行うなど実業家としても知られた。
実兄は俳優の故・大坂志郎氏(出演作「破戒〔1948年〕」「東京物語〔1953〕」「伊豆の踊り子〔1963〕」など多数)。昭和2年に母、兄とともに母の嫁ぎ先となった能代市の生家を出て東京に移り住んだ。母・志保さんの郷土料理店「秋田」を手伝いながら、大学を卒業、工芸の道に進み東京や愛知県を拠点に作家活動を続けた。
母・志保さんが昭和のはじめ頃から53年まで経営していた新宿の居酒屋「秋田」は作家・太宰治や井上靖、また木下恵介、川島雄三、河西克巳など昭和を代表するそうそうたる文壇人、映画人が出入りする居酒屋として知られた。
大学では法律を学びながら人形製作や陶芸の道に進んだのは、出入りする文化人たちから影響を受けたためといわれている。このような境遇などから、直木賞作家・渡部喜恵子さん(旧鷹巣町出身)とも古くから親交があり、平成3年には渡辺さんにちなむ施設「みちのく子供風土記館」や旧たかのす風土館(現北秋田市文化会館)の建設にあたり陶壁の製作を行った。
平成12年からは鷹巣で「澪の会」を主宰し、市民に創作活動の指導を行った。教え子たちの作品が秋田県美術展に入賞したときには、我が事のように喜んでいたという。 平成16年1月11日、83歳で死去。
(2006.7.13)