2007年11月02日
コンテンツ番号4306
藤原優太郎氏文化講演会「羽州街道を辿る」
(2007.11.2)
文化祭開会行事の最後には、フリーランスライター藤原優太郎氏による「北秋田の歴史、羽州(うしゅう)街道を辿(たど)る」と題した講演会が行われ、来場者が羽州街道を通った歴史上の人物などの興味深い話に耳を傾けました。
藤原氏は、1943年(昭和17年)現在の秋田市河辺三内生まれ。日本山岳会会員。国内外を問わずオールラウンドな活動を続け、秋田では主に鳥海山や和賀山塊を中心に登山活動を続けられています。海外では1970年にアフガニスタンのヒンドゥクシュ山脈、1979年にガルワールヒマラヤ(インド)など未踏峰登頂にも成功するなどの経歴を持ち、また登山ガイドのほか、地誌や地方史などにも詳しく、「羽州街道を行く」などの著書もあります。
羽州街道は江戸時代に整備された脇街道の1つ。江戸から桑折宿(福島県桑折町)で奥州街道から分かれ、金山峠(山形県上山市)を越えて出羽国を縦断し油川宿(青森県青森市)に至る街道で、現在の山形県を最上川に沿い南北に、ほぼ現在の国道13号に、秋田市以北は国道7号に当たります。藤原氏は、この街道の起点から終点までの旅をされ、北秋田市内でも、今泉から綴子に至る街道筋を歩かれています。
こうして実際に歩かれた経験をもとに、▽羽州街道は、佐竹氏が秋田に転封(てんぽう)された後、参勤交代のために整備された街道で、佐竹道とも呼ばれた▽現在の能代市二ツ井町の小繋は「一里の渡し」と呼ばれた難所で、津軽侯が参勤交代で渡り切ったときは、その旨を藩に飛脚で知らせたほどだった▽津軽侯は、本陣を碇ヶ関の次は綴子、森岳(森岡村)か豊岡、そして久保田(秋田)と置いた▽羽州街道は、久保田に向かう際は「久保田道」、離れる際は「大館道」など向かう目的地の名称で呼ばれた、といった地方史の一端を紹介しました。
そして、「街道は集落と集落と結ぶ道。実際に歩いてみて、どう進んだら目的地に到達しやすいかを考えると、途中に石碑があったりするなど古い道筋がわかるときがある」と、街道歩きの楽しさを語ります。
また、天保年間(1840〜)に南部から当地方を訪れた芸人・初代船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)が、土地の人間に近くに見える山の名(森吉山?)を尋ねたら、「しりもうさん(知りません)」と答えたので、その山が「しりもう山」だと勘違いした逸話なども紹介、聴衆の関心を引いていました。
このほか、天明8年(1788年)に幕府の巡検視に随行した民間人・古川古松軒(ふるかわこしょうけん)が、著書「東遊雑記」では秋田北地方の人間をあまりよく書いていないことや、同時代の紀行家・菅江真澄がその批判について苦言を呈していること、さらに、明治初期に北日本を旅したイギリスの女性旅行家、イザベラ・バードが県北を旅したときには天気が悪いときで機嫌が悪く、旅の記録「日本奥地紀行」にもそのことがよく現れている、などと、羽州街道を歩いた人と当時の北秋田のようすを紹介しながら、歴史のおもしろさを述べました。
藤原氏はさらに、羽州街道沿いの坊沢・永安寺の境内には江戸大相撲で活躍した同地区出身力士・白川徳右衛門ゆかりの「徳の力石」と呼ばれる石があることや、天保の大飢饉では、七日市の肝煎・長崎七左衛門が津軽から同街道を北に向かい、秋田に食べ物を求めて訪れた難民の惨状を記録していることなどを紹介しながら、歴史は古文書の研究から入るよりは、「古いものと新しいものを交互に見ることで関心が高まる」と、歴史への関心の持ち方や、奥深さを説き、会場で聴講していた市民らも、氏のわかりやすい講話にじっくりと聴き入っていました。