2007年11月17日
コンテンツ番号9616
講演会 「九戸の乱」と横渕・千葉常左衛門を語る
(2007.11.17)
小猿部の歴史をテーマとした講演会が11月17日(土)、市中央公民館で開かれ、約60人の歴史ファンらが、南部地方の歴史と関わりを持つ本市七日市横渕の旧家・千葉家にまつわる興味深い話に耳を傾けました。
演題は、「『九戸(くのへ)の乱』と横渕・千葉常左衛門(じょうざえもん)を語る」。講師には、岩手県立盲学校副校長で地方史研究家として知られている阿部幹男氏を迎えました。
「九戸の乱」は、今から約400年前、豊臣秀吉の天下統一後、北東北を舞台に展開された戦国時代の終焉を告げる大合戦。この合戦を記した希少な写本「奥州南部九戸軍記」が盛岡市で平成7年に発見されました。戦国時代の武将・九戸政実(まさざね)をヒーローとする内容で、九戸一党が華々しく戦う様子が描かれていました。
阿部氏らが調べたところ、写本はもともと「比内横渕の千葉家」が所蔵していたもので、筆者は千葉家第11代の千葉常左衛門とわかりました。この講演会は、千葉家のことを調べるために北秋田市を訪れることになった阿部氏と市との縁から企画されたものです。
南部藩の資料などによると、南部氏(南部信直)に対立した政実の討伐のため、南部氏が秀吉に出兵を要請、秀吉は天正19年(西暦1591年)、子の秀次を総大将に、6万5千の軍勢を差し向けました。九戸氏は、現在の二戸市に所在した難攻不落の九戸城に5千の兵、家臣団とともに篭城、奇襲作戦などで抵抗しました。しかし、城を明け渡せば命を助ける、との中央軍の謀略により落城し、政実は処刑され、城内に残っていた兵士や子女も皆殺しにされたといいます。
「九戸合戦」と呼ばれるこの戦いは、軍記「南部根元記」や、盲僧などの語り部による「九戸軍談記」によって後世に伝えられており、これらの資料をもとに歴史研究が行われるとともに、九戸城跡の発掘調査などによって史実の解明が進んでいます。
しかし、千葉家については、同家の系図などからかつて南部地方に住んでおり、4代常左衛門が変遷を経て横渕に移り住んだことはわかっていましたが、九戸氏との関係は北秋田市でもよくわかっていませんでした。
阿部氏は、一通りこのような背景に触れた上で、写本の内容や意義、九戸の乱と千葉氏との関係などを説明します。阿部氏は、▽「南部根元記」など他の古文書はいずれも九戸氏をアンチヒーローとみなしているが、写本は英雄視した政実や家臣団が登場する。このような捉え方は、近世の南部藩内では打ち首獄門になるような驚くべき内容で記録したのは九戸氏側の人物だろう、と仮説を立てながら『奥州南部九戸軍記』がどのような経緯で書き伝えられたかという謎に迫りました。
▽千葉氏の遠祖は上総(現在の千葉県)にいた平氏(平家)の一門で、妙見菩薩(北斗七星を偶像とする神)を信仰していた一族。その後、いわきの相馬と伊達藩に所領を持つことになり千葉姓は東北地方にも広がる▽しかし南部の千葉氏は九戸神社の千葉氏のみ。千葉氏は、九戸氏のもとで別当職(神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶)を務め、必勝祈願など行う側近だった▽戦いに敗れた後、千葉氏が落人となって南部を離れてから合戦の記録を代々伝え、その記録を筆まめな11代常左衛門がまとめたものではないかと推測される、と説きます。
七日市郷土史などによると横渕村は明治初期まで製紙や養蚕、製糸業の盛んな村として知られていました。これは千葉家が代々杉や桑、紙の原料となる楮(こうぞ)などの植栽を行い林業や製紙業などの産業育成に努めたからですが、さらに11代常左衛門は養蚕、製糸、絹織物生産などで村の繁栄に寄与したほか、読書と筆硯に親しみ、「落葉集」という随筆を著すなど文芸的素養にも優れていたとされています。
阿部氏は、「岩手は馬の産地だが、千葉家も南部では軍馬などとして供出する畜産を行っていた。その技術と経営手腕が横渕村でも生かされ、村の産業に反映されたのであろう。また、常左衛門は養蚕や機業で多くの盲人や障害者を使ったといわれるが、福祉政策でも功績が大きかった徳のある人物」などと常左衛門を称えるとともに、「『奥州南部九戸軍記』の下書きや「落葉集」がどこかにあるはず。ぜひ探してほしい」と会場に呼びかけていました。
聴講に訪れた参加者は、大合戦が行われた戦国時代の南部と本市とのゆかりなど、時間と地域を超えた壮大な歴史ロマンに思いをはせていたようでした。
【参考】
本市出身の直木賞作家・渡辺喜恵子さんの小説「南部九戸落城」で九戸の乱が描かれています(鷹巣図書館所蔵)。渡辺さんの母は、九戸城のあった二戸市(旧福岡町)の出身。渡辺さんは戦時中福岡町に疎開し、執筆した「馬淵川」で第41回直木賞を受賞しました。