2007年03月10日
コンテンツ番号2823
第2回北秋田市縄文シンポジウム
(2007.3.10)
森吉山ダム建設に伴い、平成7年から調査が進められている小又川流域の縄文遺跡・遺物について語り合う「第2回北秋田市縄文シンポジウム」が10日、市文化会館で開かれ、縄文文化の研究者や発掘担当者によるパネルディスカッションで調査成果の紹介と意見交換が行われました。
シンポジウムは、2日から11日までの日程で開催されている特別展「小又川の縄文時代〜遺跡・遺物が語る山間やまあいのくらし」の関連行事として開かれたもので、市内外から考古学ファンら約300人が参加しました。
森吉山ダムは、森吉山の北側を流れる小又川に建設中の多目的ダム。工事に先立って行われた確認調査によって、60カ所もの遺跡が地下に眠っていることがわかりました。調査は平成7年から始まり、今年度までに55カ所の遺跡が調査され、今から15,000年〜13,000年前の旧石器時代から江戸時代に至るまでの遺物・遺構が発見され、注目されています。
これまでの調査で出土した遺物の量はコンテナケースでおよそ8,000箱分。中でも縄文時代の遺物が圧倒的に多く、生活の痕跡が色濃く残されています。特別展とシンポジウムは、市民に調査の成果を知ってもらうとともに、森吉山の懐に抱かれた山間の地で育まれた豊かな文化を紹介することが目的。
はじめに市教育委員会の三澤仁教育長が、「特別展とシンポジウムは、この10年間の発掘成果の総括。特別展には一日およそ100人が訪れるなど、縄文文化への関心の高さがあらためてわかった。約1,000点の展示物は出土品のほんの一部。遺物はまだたくさんあるので、いずれ皆様に公開したい。今日のシンポジウムのパネラーは一流の先生ばかり。討論から、森吉山の麓で育まれた縄文文化の豊かさを感じ取っていただければ幸い」とあいさつ。
また、秋田県埋蔵文化センターの熊谷太郎所長が、「小又川流域で発掘された55遺跡の調査はほぼ最終段階。これまでの調査で、地域の歴史がより鮮明になってきた。調査成果が、地域に愛着と誇りを持つことにつながり、また歴史を開く扉になることを期待している」などと述べました。
シンポジウムは、「出土品からみた小又川の縄文時代」「遺跡からみた小又川の縄文時代」「小又川一万年のくらし」をそれぞれテーマとした3部構成。パネルディスカッションは独立行政法人奈良文化財研究所の岡村道雄企画調整部長をコーディネーターとして、弘前大学人文学部の藤沼邦彦教授、東京大学大学院新領域創成科学研究科の辻 誠一郎教授、新潟県埋蔵文化財調査事業団調査課の高橋保雄専門調査員、秋田県埋蔵文化財センター北調査課から宇田川 浩一、菅野美香子、山田祐子の3人の文化財主事、市教育委員会から細田昌史主査と榎本剛治主任学芸員がパネラーとして参加し、報告と討論を行いました。
ディスカッションは、県と市の担当者が発掘調査の成果と意見を述べ、研究者がそれについてコメントを述べる形で進められました。このうち北調査課の山田主事は、縄文時代後期(約4,000年〜3,000年前)の遺跡・日廻岱B遺跡から出土した「狩猟文土器」について報告。この土器は、側面に狩をする人と動物、弓矢やわな(落とし穴)など、ストーリー性のある文様が描かれ、内側が三つに区分されているなど、出土品の中でもたいへんめずらしい土器。
山田主事は、文様の平面図と上から見た土器の位置関係を投影機で説明しながら、「狩人のすぐ隣に弓矢が並んでいないなど、描かれているものの位置からは『狩猟物語』を整然と説明できない。3つに仕切られている部分とその外側の文様が、対応関係にあるのでは」と、自説を述べていました。
また、同課の菅野主事は、各遺跡から多くの土偶が発掘されているものの▽縄文時代前期(約5,000年前)以前の物は見つかっていない▽4,000年前のものが最も古く、形状は平らな「板状土偶」▽その後、3,500年頃にかけて立体的になり、妊婦のようなおなかの膨らんだ形状のものも出土する▽さらに3,000年前頃にかけては、遮光器土偶のような中空の土偶や、台座に立っているものなどが作られるようになる、と土偶の変遷を説明。
「向様田遺跡A・D遺跡、漆下遺跡などから多量に出土しているが、その多くは壊れた状態で見つかり、完全なものは少ない。ただ、天然アスファルトなどで、修復した痕跡があるものも見つかっている」との菅野主事の報告に、弘前大学の藤沼教授は、「土偶はほとんどが女性を表している。また、縄文人が意図的に壊して捨てたのではないかといわれることが多いが、私は、たまたま壊れただけ、と考えている」と、コメントを述べていました。
第3部では、多くの遺跡で弥生時代(約2,300年前〜)の住居跡が見つかっておらず、以後、一部を除き、住居跡が見つかるのは平安時代の遺跡であることなどに言及。この中で、東京大学大学院の辻教授は、「秋田の山林は、すでに縄文時代の後期から、ブナを中心とする落葉・広葉樹林からスギに植生が変わりつつあった。そのような自然環境の変化による影響もあったと思うが、米作りのために離れたわけではなく、なんからかの形で山林との関わりを持ちながら、生活の仕方を変えて生活が続いたのでは」と、推測していました。
最後には、会場の参加者から「新潟の遺跡群との類似性は」「当時の植物を使った織物などの遺物は残っているか」などの質問が出され、パネラーとの間で意見交換も行い、小又川流域に暮らした縄文人の生活を考察しました。