2007年01月14日
コンテンツ番号2728
さらなる発展を誓い合う
(2007.1.15)
戦後、食料不足のために入植・開拓された高野尻集落(鷹巣地区)の開拓60周年記念祝賀会が1月14日、同集落の自治会館で開かれ、出席した約50人の住民らがこれまでの歩みを振り返りながらさらなる発展を誓い合いました。
高野尻地区は、戦前頃まで「掛泥(かかりど)野」と呼ばれた隣接する掛泥集落の堆肥用採草地。戦後の食料不足は深刻で、当時の綴子村は原野を開放し、開拓部落「昭和」と「高野尻」を作りました。高野尻の開墾の鍬入れは昭和21年8月。それ以前に入植していた2人と合わせ、9戸で集落が形成されたのが始まりといわれています。
高野尻、太田、糠沢地区の43人で土地改良区が設立され開田がスタートしましたが、もともと農耕に適さない土地とされていたこともあり、入植生活、開墾は困難を極めました。その後、昭和43年から45年にかけて、鷹巣町が町営住宅を建設したことから人口も増加、現在は高野尻自治会(村上祐治会長、43世帯)と市営高野尻団地自治会(小林末松会長、40世帯)で集落を構成しています。
祝賀会には、両自治会から約50人が出席。はじめに主催者を代表して村上会長があいさつ。「入植・開拓が始まって60周年を迎ることができた。入植当時、開拓にはたいへんな苦労があったと聞く。10年ほど前から両集落が一緒になって万灯火(まとび)を行っているが、“高野尻といえば万灯火”といわれるほど定着し、住民の絆も深まっている。今後も集落発展のためご支援を」と、協力を求めました。
また来賓の久留島正雄市総務部長が、「先人の偉業を引き継ぎ、さらなる発展に向けてがんばってほしい」と祝辞を述べました。この後の懇談では、「思い出を語る」と題して3人の開拓者が体験談を披露。このうち村上ミヤさん(83)は、「当時、一帯は木の切り株だらけの原野。豆や大豆を植えたが草取りもたいへんだった。当初はランプ生活だったが、その後電気が引かれ、電灯がついたときはうれしかった」と、当時の苦労を語っていました。
このあと出席者は、開拓当時の思い出を語り合ったり、高野尻讃歌を歌ったりして60周年を祝い合いました。