2008年05月17日
コンテンツ番号2278
歴史教室の開催、研究誌の発行などを決議
(2008.5.17)
鷹巣地方史研究会(岩谷利男会長、会員数195人)の平成20年度総会並びに研修会が5月17日(土)、市中央公民館で開かれ、平成20年度の予算案、事業計画案などを決めたほか、草創期の鷹巣村をテーマとする講演で研さんを深めました。
総会には会員約30人が出席。はじめに岩谷会長が、「本会は昭和34年に『史談会』として誕生して以来、半世紀にわたる活動を続けてきた。当初は会員が集い歴史を語る活動を続けていたが、その後、文書の形でも残そうと『鷹巣地方史研究』を発行し62号を重ねたが、これも先輩諸氏の尽力の賜物。私たちも、後世に歴史を語り継げるよう微力ながら活動を継続したい。ぜひご協力を」などとあいさつ。
また、市教育委員会の長岐直介生涯学習課長が、今年度の市の事業として国指定文化財指定に向けた胡桃舘遺跡の再調査(地中レーダー探査)を実施することや、昨年、伊勢堂岱遺跡が北東北3県、北海道の環状列石を持つ遺跡とともに、世界遺産暫定リスト登録に向けて文化庁に申請、8月頃にはその結果が出ることを報告し、「歴史を掘り起こし、次代に伝えることは大切な仕事。みなさんの活動が実りあるものであることを期待します」と祝辞を述べました。
議事では、19年度の事業報告、収支決算報告を確認した後、歴史教室の開催や「鷹巣地方史研究」の発行などを内容とする平成20年度事業計画、予算案を承認しました。
総会終了後の研修会では、坊沢公民館館長の永井高道氏による「北比内鷹巣村の台頭について」と題する講話を聴講しました。永井氏は元大館桂高校校長。大学時代はローマ史を研究テーマとされていたそうです。

研修会(講話)の講師を務めた坊沢公民館長の永井高道氏
永井氏ははじめに、「合併によって鷹巣町を姿を消してしまったが、字名が残った地域は奇しくも鷹巣村誕生の地があった所。北比内とは、近世において大館、早口、鷹巣など米代川右岸一帯を現す地名。この北比内で新興村であった鷹巣村がどのような背景で地歩を占めるようになったかを少しお話ししたい」と切り出しました。
永井氏によると、藩政時代の秋田藩では、領内の新田開発のために家臣に開墾許可を与えて成功すると彼らの禄高い結びつけるという奨励策をとっており、鷹巣の地名は、元和3年(1617年)に大館佐竹侯が秋田藩から下付された許可状に「房沢村之内鷹の巣」として現れるが、このときは村草創期以前のことで、房沢村に所属する枝(支)郷であった、といいます。
本格的に開発が始まったのは慶安元年(1648年)。開発責任者は、大館侯の家老・小山縫殿丞(おやまぬいどのじょう)。小山の指揮のもと、鷹巣村は、当時の肝煎りであった斉藤伊勢や長(おとな)百姓の努力によって新田開発が行われました。
さらにその後開発が進み、周辺の村と村境紛争や坊沢村との所属関係をめぐるトラブルが発生したものの、代々の肝煎りであった斉藤兵部らが難題を解決、近郷では最も大きかった綴子村と比肩する独立村を形作った、と言います。
永井氏は、「元和3年時の開発では思うようにいかなかったようだが、大館城代が新田開発のために能力のある家臣を派遣し、さらに斉藤伊勢や2人の兵部など手腕のある人物、長百姓らの村づくりの努力によって鷹巣村が形成されたのだろう」と、鷹巣村を作った先人たちの熱意と努力を評価していました。