2008年02月23日
コンテンツ番号5229
地元・鉱山OBらがフォーラムを開催
日本の近代化を牽引した鉱山産業の一翼を担った「阿仁鉱山」の保存と活用について語り合うフォーラムが23日(土)、北秋田市阿仁郷土文化保存伝承館で開かれ、参加者は、同鉱山の歩みを振り返りながら地域振興に結びつける方策や情報発信などについての意見を交換し合いました。
阿仁鉱山は、1309年に金山として開発されたことから始まり、以来、阿仁地区には小沢銅山ほか5つの銅山(「阿仁六カ山」を阿仁鉱山と総称)が開発され、1716年には、当時の佐竹藩直営のもと産銅日本一を記録し、日本三大銅山として全国に名が知られました。
明治時代に入ってもその活況は続き、政府はドイツ人鉱山技師を招き入れるなどして、生産増強に力を注ぎました。その後、1885(明治18年)年に当時日本有数だった財閥の一人・古河市兵衛の経営(古河鉱業)に移りましたが、1970年(昭和45年)、資源枯渇により閉山となっています。
このように、日本の産業の近代化に大きく貢献した産業、土木、交通などに関する「遺産」について経済産業省は昨年、歴史的な役割の再検証や地域活性化に役立てる狙いから、「日本近代化産業遺跡群33」として全国の関係する建造物や遺跡を認定しましたが、そのなかで阿仁鉱山も尾去沢、小坂両鉱山などとともに「有数の金属供給源として貢献した遺産群」として認定されています。
フォーラムは、鉱山OBらのメンバーがつくる「異人館倶楽部(代表:阿仁郷土文化保存伝承館・庄司昭館長)」が、産業遺産認定を機に、地域振興へ向けた鉱山遺跡の活用策について探ろうと企画したもので、会場となった阿仁郷土文化保存伝承館には、かつて鉱山業務に関係した人々をはじめとする市民らおよそ50人が参加しました。
始めに、庄司昭代表が「現在、阿仁鉱山を偲ぶことのできる国の重要文化財・異人館と郷土文化保存伝承館の指定管理者を務めているが、このたびの産業遺産認定を機に、阿仁鉱山文化継承のための情報発信を行いたいと、鉱山OBの方々など8人でボランティアグループを立ち上げた。微力ながらも学びあう仲間を増やしながら、地域の活力の向上に励んでいきたい。皆さんもぜひ参画を」とあいさつ。
続いて、自ら古河鉱業阿仁鉱山での就労経験を有し、旧阿仁町の助役を務めた小林精一氏(阿仁銀山)が鉱山の歩みについての基調講演を行いました。小林氏は、かつての隆盛を極めた鉱山の歩みと生活を“鉱山(ヤマ)の仲間”たちで心に刻み合うことを目的に、鉱山の閉山20周年を記念して平成3年に記念碑を異人館前に建立したことを紹介しながら、「鉱山跡と人々の暮らしの足跡は貴重な宝。少しでも多く後世に残していかなければならない」と述べた上で、江戸、明治、昭和の各時代における阿仁鉱山の歩みについて、▽佐竹藩の取組みと時代背景▽明治時代の阿仁の繁栄▽昭和におけるヤマの閉山などについて、伝説や文献に基づいた歴史の概要に自身の体験談を交えながら話題を提供しました。
このうち、徳川幕府に仕えた佐竹秋田藩の取組みについて小林氏は、「阿仁の銅は、当時の佐竹藩のドル箱的存在で院内銀山とともに藩を支えた」「銅の産出に特に力を注いだ背景には、 関ケ原の戦いで徳川側につかなかった佐竹氏が家康の怒りを買い常陸から秋田に移封され されたものであるから、その汚名返上の意味合いが大であったらしい」などと話し、徳川幕府が全国の主要鉱山を手中に納め、その権力と財力を高めていく過程において、秋田藩と阿仁銅山の貢献と犠牲も大変なものであった事を強調していました。
このほか、明治維新後は国の直営下、富国強兵策での産業近代化による鉱山開発のために外国人技術者を招き入れたことで、阿仁の地がいち早く西洋文化を取り入れ華やいだ産業文化を享受できたことや、昭和の時代は、日中戦争や朝鮮戦争などによる軍事特需で活況しつつも、資源枯渇のために、ついには閉山に追い込まれた鉱山の歩みなどについての分りやすい説明に、参加者たちは興味深めに聴き入っていました。
続いて、同じく古河鉱業阿仁鉱山で就労の経験を有する相馬安雄氏、齋藤宏一氏、八田祐治氏(いずれも阿仁銀山地区在住)の3氏に小林氏も加わり、パネルディスカッション方式で、▽鉱山の歴史と思い出▽鉱山が生んだ文化財などをテーマに意見が述べられました。 この中で、鉱山で栄えた町の歴史では特に、全国からの技術者や労務者の出入が多かったことから宗派の異なる寺院が5つも存在し、大小の神社も60を超えて祀られていることなど、その文化財的価値が各方面から注目されてきたことが述べられました。
また、精練された銅の大阪方面への運搬に日本海航路の「北前船」が使われ、当時の関西文化との交流も盛んであったことが鉱山跡や阿仁銀山地内に残された史跡などから伺えることなど、その時々の記録写真を見せながら紹介していました。
また、第二次大戦をはさんだ昭和時代の生活の様子についてパネリストの4氏は、「敗戦のダメージは大きかったが、それを跳ね除けるべく鉱石の産出に労使が一体となって頑張った」と述べながら、「神社の祭典は大勢の参加で賑わった」「商店街も多くの商いで活気があった」「夜の町の裏町(色街など)の存在も懐かしい」などと、鉱山景気に活況を呈していた鉱山町・阿仁の当時の様子を思い出深く語っていました。
最後に参加者から、「歴史ある阿仁鉱山の貴重な話であった。ぜひ、外への発信を広めて欲しい」「町の人ももっと勉強してもいいのでは。足元の貴重な文化を大切にすべきだ」「語り継いで理解を広めてもらうためにも、鉱山跡や関係の史跡などを線で結ぶマップ作成を進めよう」などとする要望や提案が出され、今後、保存と伝承のための学習と実践活動が望まれることの思いを確認し合っていました。
異人館倶楽部では今後、このフォーラムを足がかりに阿仁地域に点在する「鉱山史跡」の現地調査と実行委員会等での協議を重ねながら、来年5月のゴールデンウィークに「阿仁鉱山700年祭」を開催して、阿仁鉱山文化に触発させた新しい地域おこしを見い出す機会にしたいとしています。
なお、同倶楽部では、ボランティア活動として、または学習活動としての参加者を広く募集しております。阿仁鉱山の歴史と貴重な生活文化に興味、関心をお持ちの方など、お気軽に下記までお問合わせください。
■異人館倶楽部事務局 TEL:0186-82-2600
(2008.2.23)