2008年01月27日
コンテンツ番号5390
あきた県民カレッジ特別公開講座
県の生涯学習事業「あきた県民カレッジ特別公開講座」が1月27日(日)、市交流センターで開かれ、市民約100人が、「昔語り」や「猿倉人形芝居」等の民俗芸能実演を楽しんだあと、午後からは専門家による講演に耳を傾けて、人形の文化や歴史等について学習しました。
民俗芸能実演では、「昔語り」として朗読ボランティアやまびこの小林玲子さんが「花咲き山」、小坂和子さんが「すずめっこの話」を懐かしい秋田弁の語り口で朗読しました。
引き続き、吉田千代勝一座による「猿倉人形芝居」が披露されました。この日の演題は「大蛇退治」、「鬼神のお松」、「貫徹和尚の傘踊り」の3題で、ユーモアのある秋田弁のセリフ回しや、迫力ある大蛇との大立回り、鬼神のお松の七変化等、人形操法の特徴を活かした素早く、激しくそして曲芸的なやり取りが展開されました。受講者らは昔懐かしい人形絵巻に満場の拍手を贈りました。
猿倉人形芝居は、明治時代に由利本荘市出身(旧:由利郡鳥海町)の池田与八(吉田若丸)が江戸時代から続く文楽などの人形芸を基礎に、独自の工夫を加えて創案した人形芝居です。かつては秋田人形、与八の出身地から百宅人形、活動写真の人形に対して活動人形とも呼ばれましたが、現在の名称は与八の弟子で活発な活動をおこなった真坂藤吉(吉田勝若)の出身地である猿倉に由来します。
明治から昭和初期には全国各地で興行し、満州や樺太までも巡業しました。神社やお寺の祭典、農村では民家の座敷とどこでも行えるため、大衆娯楽として大変な人気を博しました。
藤吉には弟子がおり、吉田千代勝一座(北秋田市)、鈴木栄太郎一座(羽後町)、木内勇吉一座(由利本荘市)の3座は昭和49年に秋田県無形民俗文化財に指定され、現在も継承しています。
人形の民俗について、歴史や芸能とし関わりを説明した齋藤壽胤(じゅいん)氏
午後からは、秋田県民俗学会事務局長の齋藤壽胤(じゅいん)氏による講義「人形の民俗」〜形代から人形芝居まで〜が行われ、20数名の市民らが、人々の暮らしや信仰などに密接に関わってきた人形の原点やその種類などについて学習しました。齋藤氏は始めに、「人形の原点」について説き明かしました。人形は本来、「形代」(かたしろ)と言って、みそぎや祓いなどに、それを受ける人の代わりとして使った「人形」(ひとがた)であるとしたうえで、「古来より、人間の宿命の身代わりとしてその役割を負わされてきたと言っても過言ではない」、「民俗史上でも貴重な資料や習俗として現世に受け継がれている」などと述べました。人体をかたち取ったいわゆる「ひとがた」に霊魂などを宿して祈祷や呪詛(じゅそ)等が行われてきたもので、人間の信仰の一番のおおもとと言うべきものです。
次に、人形の目的について、齋藤氏は「その発祥や地域での伝承・習俗等の関係からその土地特有の形が存在するとしても、民俗学的には一通りの分類ができる」として、あがもの人形祝儀人形守護人形祈祷人形祈願人形祝福人形山車人形呪詛人形など11種に分けられ、それぞれに人々がその「形代」に思いを託して、祈り、慰めてきたものであることを説明しました。
このうち、「祝儀人形」では、子供の成長を願う「雛人形」「武者人形」が有名であって、ともに五節句の式日でも重厚であることや、「守護人形」の「天児(あまがつ)・這子」は乳児の魂が夜中に抜け出さないよう(死なないように)その子と遊んでくれるようにと枕もとに置いた人形であること等を紹介しながら、昔から人々の暮らしの中心には「こどもの安心・安全」の祈願、信仰があったことを強調しました。
このあと、講義は、人形が「形代」としての役割を果たしつつ、一方で芸術、民芸の領域にあって人形芝居という大衆芸能の発達の基礎を築いた歴史と背景について述べましたが、参加者は、午前中に公演した「猿倉人形芝居」にも関係する人形芸の由来や継承等にまつわる興味深い説明に熱心に聴き入っていました。
あきた県民カレッジは、県民に多様で魅力ある学習機会を提供するとともに、学習意欲を高め地域における生涯学習の推進を図るために平成10年から開催されております。「全県をひとつのキャンパスに」を合い言葉に「あきた学」にこだわり地域の魅力を掘り起こし、よりよい秋田に向かう講座を展開しています。
(2008.1.27)