2008年01月27日
コンテンツ番号5391
平成19年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会、2日目
市文化会館を会場に、26日(土)・27日(日)の2日間の日程で開かれている平成19年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会。2日目の27日には、午前中、森吉山ダム関連遺跡群の調査成果の報告が行われたほか、午後からは、研究者による古代の秋田の環境をテーマとした講演会が開かれ、歴史ファンらが耳を傾けました。
この日の報告は、平成7年に発掘調査が始まり今年度で調査が終了する森吉山ダム関連遺跡群について。平成4年にダム地内の遺跡の所在を確かめる分布調査が始められたころは、小又流域にはまだ4遺跡しか知られていませんでしたが、調査を進めるにつれ遺跡の数が増えていき、最終的に61カ所の遺跡の存在が確認されています。このうち、ダム建設によって水に沈む遺跡、堤体工事で壊れる51遺跡の発掘調査が行われ、今年度が調査の最終年度となったものです。
はじめに県の担当者が、「森吉家ノ前A遺跡」「向様田(むかいさまだ)D遺跡」について、市の担当者が「二重鳥(ふたえどり)B遺跡」の調査成果を報告したあと、ダム関連遺跡群の13年間の発掘の歩みと成果が発表されました。
「森吉家ノ前遺跡」は、ダム建設で移転した旧森吉集落そばを流れる小又川沿いの河岸段丘に位置する遺跡。平成14・15年の2ヵ年にわたる調査で、縄文時代から安土桃山時代までの集落跡や墓域があったことがわかり、今年度は各時代の集落の範囲や構造を把握することを目的に調査を実施。
この遺跡では、これまで54棟の掘立柱建物跡が見つかっていますが、今年度はさらに15棟の堀立柱建物跡が見つかったことなどの発掘成果が紹介されました。その主なものとして、▽柱穴から、20.3×10.3もの大型建物もあったと推測される▽近くには南北に連なる13基の井戸跡があった▽井戸内からは、箸や下駄、桃の種などが出土した。桃は邪気を払う果実とされていたことから、井戸を埋め戻す際、まじないや儀式があったことが想像される、といった成果について説明。
その上で、「この集落は、江戸時代の書『六郡郡邑記』にある村の記録にはなく、安土桃山時代で消えてしまっている。どのように継続したかはわからない」と、移転前の集落の位置と遺跡の場所を比較しながら、なんらかの理由で消滅した中世集落の謎について触れ、歴史のロマンを掻き立てていました。
また、「向様田D遺跡」は、平成13年に一度調査が行われ、盛土から20万点もの土器破片や2万点もの石器など大量の遺物が出土した縄文時代中期から後期にかけての遺跡。今年度の調査では、盛土の北側部分を調査、盛土の下から、配石遺構、焼土遺構、土坑、土器埋設遺構などが検出されたほか、盛土内から、顔料になるベンガラの粉末と考えられる赤色顔料の散布跡などが確認されたことが紹介され、担当者は、「周辺に位置する向様田A・B遺跡などと合わせ、縄文時代後期の大規模な祭祀に関わる場であったと考えられる」と、述べていました。
「二重鳥B遺跡」は、向様田遺跡群や漆下遺跡のそばにある縄文時代前期(約5千年前)、中期(約6千年前)、後期の集落跡。発掘を担当した市教委の担当者は、今年度、▽縄文時代前期の竪穴住居跡4軒がまとまって見つかったこと▽中期終わり頃の遺構として、この時期東北地方に特有の複式炉を持つ竪穴住居跡9軒が見つかり、最大のものは直径が7.6mで壁の高さが90cm、この時期としては最大のものだったことを紹介しました。
一方、後期後半では、竪穴住居1軒のほか土器や石器などの捨て場が見つかり、そこから多量の土器や石器とともに、耳飾りや鳥の頭部を模したと考えられる土製品が出土、その特徴などについて説明し、「遺跡は、繰り返し集落が営まれた場所であることがわかった。今後は、周辺遺跡の調査成果との比較検討を行い、小又川流域の縄文時代の集落の変遷を明らかにしていきたい」と締めくくりました。
続いて、埋蔵文化財センター北調査課の小林課長が森吉山ダム関連遺跡群の13年間にわたる調査について総括。報告の後の質疑応答では、会場からは、「遺跡はダムの底に沈むが、模型をつくるなどなんらかの形で残してほしい」との要望が出され、小林課長は、「今後、みなさんの意見・要望を聞きながら、活用方法を検討したい」と、答えていました。
午後からは、人間と環境の関係史を研究されている東京大学大学院の辻誠一郎教授が「環境史からみた古代の秋田」と題し講演。辻教授は、地球温暖化に触れ、「実は、縄文人が今よりもっと極端な地球温暖化を経験している。今から約2万5千年前の旧石器時代、海面は今より100mも低かった。それが、縄文時代に入り、1万1千年前頃までに海面が100m上昇、気候変動とともに生態系が大きく変わった。北東北も温帯域になり動植物が豊かになると定住が始まり、クリが増えた」、と地球規模で起こった気象や環境について説き、
「ところが、円筒土器文化がはじまる5千9百年前頃、クリがトチに変わる。これは、人為的な生態系の変化と考えられる。当時の土器中から、麻が見つかっているが、これはニワトコやサルナシ、ブドウなどを使い、醸造していた証拠。つまり、酒をつくっていたのだろう」と、縄文人は、栽培植物である麻を育て、酒を作り飲んでいた可能性を指摘しました。
また、大館市の池内遺跡から出土した火山灰に埋もれた秋田杉の痕跡や、鳥海山麓から出土する神代木(埋もれ木)などを例に、「杉は、いまでこそ山地に植えられているが、本来は泥炭地などを好む樹木で、もともと秋田に多かった樹木。5千4百年ほど前の十和田カルデラの噴火による火砕流でなぎ倒され埋もれた神代木が田んぼの下から出土したことでわかった。適地でない土壌に植えられていることも近年になって飛散する花粉が増えた原因の一つかもしれない」と、植生と環境の変化、縄文人の暮らしについて述べていました。
(2008.1.27)