2009年07月30日
コンテンツ番号6793
阿仁合・大阿仁放課後子ども教室、児童クラブの合同野外研修
(2009.7.30)
阿仁合・大阿仁放課後子ども教室、児童クラブの合同野外研修が阿仁比立内・阿仁中村地区で行われ、児童ら約30人が参加し、地域の歴史を学びました。
同教室・クラブの合同研修は、児童らに地域の史跡や歴史を紹介し、理解を深めてもらおうと開催されたものです。
最初に訪れたのは、長畑地蔵尊。地元長畑集落の上杉政吉さんが、地蔵尊を建立した念心和尚の人となりや当時の地域の様子をわかりやすく児童らに説明しました。
本来、地蔵尊はもう少し離れた場所に建立されることになっていたことに、児童たちからは「なぜこの場所から地蔵様が動かなくなったのですか」と質問。上杉さんは「本当の理由はわからないが、地蔵様がこの地域が一望できるこの場所を選んだのではないか」などと答えていました。
このあと、内陸線阿仁マタギ駅から中村集落を散策。中村の七不思議石のうち、動石(ゆるぎいし)、瘡石(かさいし)、駒爪石(こまつめいし)を見学。石田一男さん(阿仁水無)が、それぞれの石にまつわるいわれなどを説明しました。石田さんは「こんな大きな石が、どこからきたと思いますか」と児童らに質問。
児童からは「山の崖から落ちてきた」「だれかが運んできた」「どこからか飛んできた」などと答えが出され、石田さんは「昔、森吉山が大噴火したときに、このような大きな石が飛んできたといわれている」などと説明していました。
その後、遊遊ガーデンまで散策し、昼食。午後からは、遊遊ガーデンの広い原っぱでボールゲームやバトミントンなどを楽しみました。子どもたちには、夏休みの思い出となる一日になりました。
【長畑地蔵尊】
念心の作。念心は比立内の通称寺コ念心庵の第2代住職で、信望があつかった。住民が通行するのに困っているのを見て、1667年ころ大又川右岸の羽立から萱草までの難所に2年の歳月をかけて道を開き、また繋沢樋滝の大日様、長滝の不動尊、赤倉の地蔵尊を建立した。さらに繋沢道路(大覚野街道)の改修を藩に出願し、許しを得て実施するなど、数多くの偉業を残した。それぞれの地蔵は一里塚で、通行の安全を祈願した。念心は、1724年に自ら志淵沢から石を運び彫像して、長畑に3体の地蔵を建立した。−阿仁町史より−
【中村の七不思議石 動石(ゆるぎいし)】
伴五郎という百姓がヤジ(湿原)を開墾して稲籾を蒔いて稲作を始めたところ、その水源に大きな石があった。この石が揺れ動くと雨が多くて不作となり、動かない時は豊作となることを知った。以後村人の作占いをする石として祭るようになった。
【中村の七不思議石 瘡石(かさいし)】
打当中の又金山が探鉱でにぎわった頃、大覚野峠を越えて出稼ぎに来て帰らない夫を探しにきた女がいた。カサ・クサ(瘡病)に苦しむ幼児を背負い疲れはてた容姿で行く道の教えを乞うた若い女に「今夜は私の家に泊まって、夜明けに行くように」と進めたが、「一刻も早く夫と会いたい」とのことで山に入っていった。早朝村人は心配して探しに行くと、女は幼児を抱くように息絶えていた。村人は哀れに思い無縁墓地に弔い供養したやった。以後、疫病除けの神として信仰されてきたという。
【中村の七不思議石 駒爪石(こまつめいし)】
中村に馬長者あり、若葉香る頃には高齢の馬品評会が行われていた。親孝行娘と評判のイシが育てた「青」は一際目を引く2才駒である。長い冬から開放された元気な青が道端の黒光りする大石の上を飛び越えた。すると黒光りする大石の上にひ蹄跡がクッキリと残った。村人は驚き長者はイシから種牡馬として譲り受け、多くの名馬を産出した。青の死後、村人は大石の側に葬り馬頭観音堂を建てて祭るようになった。