2010年03月10日
コンテンツ番号1911
東京大空襲から65年目孤児の御霊追悼し平和祈る
上野駅地下道で豊村さん引揚者と孤児の援護に尽力
本市宮前町の豊村政吉さん(82)が今年3月10日(水)、東京・上野の地下道で、終戦直後、戦火で焼け出されて孤児となり栄養失調などで亡くなった孤児たちの供養の集いを営みました。
豊村さんは、戦後の混乱期、上野で路頭に迷っていた孤児たちを鷹巣に連れ帰り世話をする活動をしていました。孤児が最も多く生まれることとなった1945年3月10日の東京大空襲から65年目にあたるこの日を一つの節目として、孤児や当時援護活動に関わった人たちに呼びかけて開いたものです。
この日上野駅では、当時孤児たちであふれかえってた地下道入り口付近に、おにぎりやきりたんぽ、花などを添え、壁には「戦災孤児諸霊供養の集い」と書いた幕を張り参列者約60人で合掌。豊村さんは、「引揚者世話係・秋田県」などと記された当時の腕章を着け、「多くの孤児たちが栄養失調などで尊い命を戦争の犠牲によって奪われた。御霊を安らかに、永遠の平和をお祈りいたします」と追悼文を読み上げました。
豊村さんは終戦前の半年間群馬にあった部隊に従軍、除隊後ふるさとの旧下大野村(後の合川町)に戻り木戸石郵便局に勤めますが、沖縄に出征した兄の消息を尋ねるため退職します。半年後に兄の戦死を知ることになりますが、捜索の過程で復員兵や旧植民地からの引き揚げ者の帰還を支援する思いが募り、「在外父兄救出学生同盟」のメンバーとなって援護活動に従事します。
昭和21年には同連盟の支援団体「引揚援護大館学生青年同盟」を立ち上げ、県北の旧制中学5校の生徒とともに活動を展開します。鷹ノ巣駅前などでの案内のほか、引き揚げ港だった京都・舞鶴港や函館港に県の担当者とともに赴き、秋田出身者を列車に乗せて引き揚げ者の世話をしました。特に舞鶴には10日に一度程度、昭和36年に集団引き揚げが終わるまで何度となく足を運びました。
舞鶴からの帰路は東京経由。乗換えで降り立った上野駅周辺は焼け野原でした。浮浪者に交じり身なりの汚れた子どもたちがあふれていました。東京大空襲などで親を失い引き取り手がなくなった戦災孤児たち。餓死した子どもたちの遺体もそのまま放置されていました。
惨状を見るに見かね、「ごはん食べたい」「お金ちょうだい」と寄ってくる子どもたちに「秋田に来ないか。秋田にいけば銀シャリ(白米)がたくさん食べられるぞ」と声をかけたのが活動の始まりでした。その後も上野に立ち寄るたびになついてくる孤児は増え、子どもたちを秋田に連れ帰りました。
「戦災孤児の家」として子どもたちの安住の地となったのは、当時鷹巣町から無償で間借りさせてもらっていた消防器具置き場の2階。現在の秋田銀行鷹巣支店の場所にありました。多い時で10人ほどが住みましたが、入れ替わりも激しく一週間ほどでどこかへ行ってしまう子が多かったそうです。家が手狭になると、町が町営住宅として建ててくれた木造平屋建ての「少年の家」に移ります。
米は農家から分けてもらい、だいこんやはくさいを畑で作りました。生活費は子どもたちが靴磨きで稼いだほか、学生や青年会、婦人会などが該当募金で集めた寄付金を充てました。やがて妻キクさんと印刷会社を興しその収入もつぎ込みました。工場では手に職をつけさせようと孤児も雇いました。
「けんかや万引き、窃盗で学校や警察から呼び出されたりすることもしばしばだった。しかし、夜中に「母さん」とうなされて叫ぶ子どもたちを叱ることはできず、仲良く暮らそうと諭すことしかできなかった」とその頃のことを振り返ります。 その後、子どもたちは就職や引き取られて最後の一人が巣立ったのは昭和35年頃のことでした。引き揚げ孤児を含め、世話した子どもの数は300人を越えていました。
「誰もが貧しく、せいいっぱい生きていた。でも、困っていると誰かが手を差し伸べてくれたいい時代だった。孤児や難民を生み出すような戦争は二度と起こしてはならない」と、話していました。