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第1回北秋田市縄文シンポジウム講演/演題「人間史の中の環状列石」
講師 國學院大學 小林達雄教授
縄文人の精神世界について講演する縄文文化研究の権威・小林達雄國學院大学教授

 【講演要旨】

 最近、縄文文化が多くの皆さんの関心を引いています。それに呼応するかのように研究も進み、縄文人は高い文化を持っていたこともわかってきました。そのような文化には、安定した食料生産方法である農耕が当然あったと思われますが、縄文時代に農耕はしていませんでした。小規模な栽培はしていましたが、全面的に依存するようなものではありませんでした。狩と魚取りと、それから、山菜取りなどをバランスよく組み合わせていたんですね。

 ところが研究が進むと、あれだけ高い文化を持っている縄文人が農耕を抜きにして文化を維持できるはずがない、狩猟と、あとは山菜を食べている程度だったらそんなことできやしないだろうという見方が出てきます。この見方は実は研究者の間でも多いんですね。しかし、農耕はしていなかったけれども食料は十分にあり、生活は安定していたのが縄文社会なのです。

 世界的に見ても、縄文人ほど農耕抜きの文化を築き、1万年もの間維持してきたという集団はほかに例がありません。最近の研究では縄文時代早期の終わり頃には、すでにウルシを使い始めていたという報告もあります。お隣の中国文化と比べても匹敵するくらいの古さを持っています。ウルシも持っていますし、あのすばらしい縄文土器を作って、次から次へと発達させてきました。縄文人は同時代の他の集団に負けない文化を持っていたとみてもよいと思います。

 しかし、縄文時代についていろいろわかってくると、何か欠けているものがあるような気がしてならないんですね。それは一言で言うと縄文人の「こころ」の問題です。ストーンサークルや石棺墓など、作られたものだけをみても縄文人のこころというものはなかなかわかりません。

 縄文時代は、今から1万5千年くらい前から幕を開けますが、その前の旧石器時代との大きな違いは、「ムラ」を営むようになったことです。自分たちがここぞと決めた自然の一角を切り取って、あるいは自然から“略奪して”人間のものにした、というのがムラの始まりというふうに見ることができます。これは、たいへん大きな人類の歴史の中での出来事です。これを私は「縄文革命」と呼んでいます。

 このようにしてムラを作ると、その中には住みかをもうけるようになります。「竪穴住居」はその典型的なものの一つです。そして、より充実した生活を送ることができるように食べ物の保管場所や、共同墓地、ゴミ捨て場や広場を設けます。その分だけ自然がだんだん追い出され、人工的な色彩が強まってゆきます。こうして彼らの頭の中に、ムラの「内と「外」という概念が徐々に定着していったのではないかと思います。

 また彼らは、当然縄文日本語を話していたはずです。当時の人々や文化を知るには、このような概念や行為を伝える手段である言葉というものをもっと意識すべきだろうと思います。言葉は、物のほかに竪穴住居の中の内と外、ムラの内と外のように、広く「内と外」という抽象的な概念を意味づけることができます。外からムラに戻ったときに、自分たちは外側にいる鳥や動物とは違うぞという自覚、つまり、「内」と「外」という意識を持った可能性が極めて強いと思います。

 俺たちは動物ではない、人間だという意識が高まってくると、今度は自分たちがヒトであることの証拠を作るようになります。これが記念物でありモニュメントです。今日のテーマになっているストーンサークルは、まさにそれなんですね。

 小牧野や伊勢堂岱遺跡でもそうですが、縄文人はストーンサークルを作るために重い石を苦労して遠くから運んでいます。腹の足しにならない非生産的な行為ですが、あれを造ったということはまさに「こころ」の問題で、造りたいという動機があるわけです。

 縄文人は竪穴住居を造っています。しかし、鳥や獣の巣よりは幾分構造的になっていますが、蜂の巣やアリの一種が作る大きな巣に比べると、単純なものです。住居では自然と差別化できているとは言えません。そのため別のもので自然とは違うぞ、と表現するものがどうも記念物であり、ストーンサークルらしいのです。それは彼らの世界観を表したもので、はじめは「俺たちは人間としていろんなことを考えているよな」という議論をしたと思います。

 しかし、どう表現したらいいかわからない。そこで、石をそこに置いてみると丸い形になった。「ああ、これだ、これだ」と、ちょっとでも世界観にひっかかるところがあると、「これだよ」と、具体的な形で言葉では言い尽くせないことを引き出すことに成功していったと言うことができます。まさにそれが「世界観」なのです。透明人間は目でみることがせんが、包帯を巻くと見えてくる。それと同じように、丸で象徴される世界観を形にしてしまえばもうこれは明確なものになります。

 じゃあ「世界観」とはなんでしょうか。「丸」がそうです。「石を並べる」ということも世界観に関わることでしょう。それから、大湯のストーンサークルのように緑色をした石を持ってくる、また、岩木山を望むことのできる限定された場所に造られている太師森遺跡のように、そこから「山がみえる」といった山に対する観念もそうです。その観念がストーンサークルを作るときに入ってきています。

 伊勢堂岱遺跡も周囲が杉林で囲まれ周りが見渡せませんが、一般的に縄文のムラの周囲というのは、今我々が思うほどうっそうとした森ではありませんでした。周りが良く見えるということは、日昇や日没など天体の運行もよく見えるということです。

 太師森遺跡では、岩木山の方角に日が落ちるとき、お祭りをしたかもしれないんです。何月何日に落ちるのかそのことを調べていけばですね、ただ汗水たらしてストーンサークルを作ったものではないということがだんだんわかってくるはずです。

 環状列石のような記念物は、それを作ることによって人々が結束します。そして、過去(先祖)と現在(自分たち)、現在と未来、子々孫々という考えというものが生まれます。またそれは、言葉となって伝達されて縄文人の精神世界を形作って行きます。ストーンサークルには、そういった縄文人の「こころ」を知る大きな手がかりとなるものなのです。


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